ノルウェイの森
村上 春樹
「ワタナベ」という男性と「直子」という女性が中心に「生と死」をテーマにした作品であるが、主人公およびその関係者が自ら死を選んでしまう。それぞれに理由があるのだが、私自身、10代後半か20代前半にこの作品を読んでいたら共感した部分が多かったかも知れない。
しかし、40歳を過ぎ、自身に子供が授かった後にこの作品に触れた私は違う感想を持った。自ら死を選ぶことがどれだけ浅慮か…その事を次の世代(自分の子供)にいかにして伝えるか考えてみたい。
希望がないから死を選ぶ…という浅慮さ
結論から言えば、どんな事情があるにせよ死を選ぶことは浅慮である。身勝手である。逃げである。結局は自分の事しか考えられていない事の表れである。長い人生では辛い思いをすることもあり、酷い目に遭うこともある。
「もう人生に希望がない」と思う事だってあるだろう。
だからといって死んでしまったらどうなるだろうか。「自分」は「死ねばそれでいい」かも知れない。しかし、「周囲にいる人」はそうはいかない。親は血の涙を流して悲しむだろう。「私にはそんな風に思ってくれる親や家族はいない」と思っている人もいよう。では「友達」はどうだろうか。「恋人」はどうだろうか。「先生」はあなたのことを心配していないだろうか。
「そのくらい追い詰められてしまった」と言えばそれまでかも知れないが、あまりにも「周りの人」を見ていないのではなかろうか。「自分が死んだら誰それが悲しむ」と考えることはできないのだろうか。これは「浅慮」であり「身勝手」そのものなのである。
生死について過剰に考えてしまう…という未熟さ
10代から20代の時期に生死について過剰に考えてしまう人物は「自立した考えが持てていない」ように感じる。基本的に何もしなくても、または自身の能力をほとんど発揮せずとも生活が成り立ってしまう。お金も食べ物も住居も手に入ってしまう。
そんな環境の中にいれば「自ら行動する」必要もない。自ら行動しないから「外との接点が無い」。外との接点がないから「思い悩む事もない」。あり余る時間の中で行き着く思考は「自分は何なのか」「自分は何のために生きているのか」「生きる価値などあるのか」である。「生きる」の対極に「死」がある訳だから、当然「死」も意識するようになる。
そして、外部から些細な刺激を受ける事によって「自分は生きる価値がない」「自分は生きる資格がない」と端的に考えてしまう…。長く書いたが、簡単に言えば「甘え」と「未熟」なのだ。
作品中に描かれる死を選んだ者達
この作品の中では何人かが自ら命を絶ってしまう。それぞれの事情は確かに重く同情に値する部分もある。
しかし、死を選んだ彼らの共通点は「ほとんどが自己都合」である。自分と自分を取り巻く環境において長期的な強いストレスにさらされ「自分にはもう耐えられない」「悪いのは私」などと判断して死を選ぶ。自分が死んだら周囲にどんな影響があるか、どれだけ悲しむ人いるか。そこに考えが及んでいるとは考え難い。
これを「自分勝手」「わがまま」と言わずして何と表現できるだろうか。
次の世代に伝えたい「死の重み」と「自立」
冒頭にも書いたが、私は40歳を過ぎ、私には小学生の子供がふたりいる。そんな環境下でこの作品に触れた。
今までも子供達には「命の大切さ」は教えてきたつもりである。しかし、もっと伝えたいことがある。それは「死の重み」と「自立」である。人の死が「周囲」にどれだけ影響するか、自身の周りにいる人々をどれだけ悲しませ、どれだけ傷付けるか。
そして「死を選ぶ」ような発想を持たないようにするために、自ら行動し、人との接点を多く持ち、自立した心を持てるように「仕向けて行く」事が今の世代の私たちの役割と考える。